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ダライ=ラマ, チベット仏教(ラマ教)において活仏とされる人に与えられる最高位の称号, 確か現在で14代目
ダライ・ラマ (Dalai Lama, ཏཱ་ལའི་བླ་མ་, taa-la’i bla-ma) は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡である。その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである〔デエ p.127〕。 ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサから統治するチベット政府を指揮することがあった。現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。 ==概説== チベット仏教では、チベットの国土と衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベットの人々は観音菩薩をチベットの守護尊であると考えるようになった。ダライ・ラマはその観音菩薩の化身とされる転生系譜である。ラサのポタラ宮は、第五世以降の歴代ダライ・ラマの居城であり、チベット仏教における聖地となっている。チベット仏教の信者らはその居城へ一生に一度は巡礼することを目標としており(最も聖なる巡礼方法は五体投地とされる)、信者らからはイーシン・ノルブ(如意宝珠の意)と尊称される存在である。日本ではチベット仏教の法王とも呼ばれる〔ペマ・ギャルポ p.87〕が、チベット仏教で法王と呼べる存在は、かつて明朝より大宝法王の称号を贈られたカルマ派のカルマパや、北ドゥク派のギャルワン・ドゥクパなど複数存在する〔現在、中国語圏では、リンポチェと呼ばれる化身ラマが法王号をもって尊称されることがある。例えば、20世紀亡命ニンマ派の長を務めたドゥンジョム・リンポチェは中国語圏では敦珠法王と呼ばれる。なお、法王と訳されるチベット語のチューキギェルポないしチューギェルは、仏法を保護した世俗の君主などに対して使われる(吐蕃のソンツェン・ガンポとティソン・デツェンとレルパチェンの祖父孫三王、シッキム王国の藩王、デルゲ法王など)。アルタン・ハーンもダライ・ラマ3世よりチューキギェルポ・レーツァンパ(法王梵天)の称号を贈られた(転輪聖王も参照)。〕。 多くの場合、ダライ・ラマはゲルク派の指導者であると考えられているが、この地位は正式にはガンデン・ティパの属下にある。ガンデン・ティパはダライ・ラマによって任命される任期制の役職であり、実際に多大な影響力を有しているのはダライ・ラマである。ダライ・ラマはゲルク派の有力な宗教指導者から始まった転生ラマ制度であったが、ダライ・ラマ5世の代に至ってチベットを支配する政治的権威をも身にまとうようになった。第六世以降のダライ・ラマはモンゴルや清朝という外部勢力によって改廃させられたり、未成年時には摂政が政務を代行したため、ダライ・ラマ本人がつねに実権を掌握していたわけではなかった。とはいえ、観音菩薩の化身たるダライ・ラマに具わるある種の理念的な権力はつねに機能しており、清朝などの介入者や実権を握った摂政らも、その権威を否定することはできず、少なくとも形式上はダライ・ラマの教導に従う態度を示していた〔石濱裕美子 『図説 チベット歴史紀行』 河出書房新社、1999年、p.84〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダライ・ラマ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dalai Lama 」があります。 スポンサード リンク
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